Report.1 石橋駅前の歴史を学ぼう! 第1回 “商店街物語”

シモツケ大学開校!

「シモツケ大学って何?どんな活動をするの?」

このような疑問を抱いている方も当然いるかと思いますので、「ソーシャル系大学」と「暮らしが変わるきっかけの場」をキーワードに、シモツケ大学について説明します。

ソーシャル系大学とは、地域に根づき、地域のなかに学びの場を創り出しているコミュニティのことです。様々な講義やワークショップなどを通じて、地域を知るきっかけや、人とのつながりが生まれていきます。「シブヤ大学」や「自由大学」など、全国各地に存在し、コミュニティ毎に多様なテーマを掲げて活動しています。

シモツケ大学は、「暮らしが変わるきっかけの場」をテーマとしています。
「下野市 × 〇〇」のように、地域資源や暮らしに関するものを組み合わせていくこと。そして、身近な興味・関心の種を拾い上げることで、関わった人たちが「思い返せば私の暮らしが変わったのはあの時だった」と思えるような学びの場を目指しています。

シモツケ大学の立ち上げには、下野市総合政策課の方々、地域おこし協力隊の鈴木 祐磨さん、(一社)シモツケクリエイティブの山口 貴明さん、NPO法人とちぎユースサポーターズネットワークの古河 大輔さんが事務局として関わってきました。

事務局がプログラムを提供することもありますが、下野市に関りのある人たちと一緒にプログラムを企画、提供していくコミュニティでありたいと考えています。自身のノウハウや知識をシェアしたり、一緒に活動したい人を連れてきたり、様々な形で関わっていただけると嬉しいです。

皆さんと一緒に「あーでもない、こーでもない」と試行錯誤し、過程を楽しみながら進めていきたいと思いますので、よろしくお願いします。

 

初めての授業は…!?

初めての授業は、事務局の古河さん、鈴木さんによるプログラムです。

2020年10月23日に石橋駅前コミュニティセンターで開催された当イベントでは、石橋駅前の地域や時代の変化を聞き、終戦後のリアルな生活や歴史について学びました。
講師は、幼少期の頃から下野市で暮らしてきた、渡辺 正二(わたなべ まさじ)さん、田崎 幸男(たさき ゆきお)さんのお二人です。

左から(事務局)古河さん、(講師)田崎さん、(講師)渡辺さん、(事務局)鈴木さん。
事務局のお二人はMCを務め、息のあった掛け合いにより会場を盛り上げていた。

渡辺さんは、昭和6年(1931年)生まれの89歳。終戦後は祖父の代から続く家業のお米屋で働いた後、石橋商工会へ転職。ウエイトリフティングで国体選手として出場。スポーツを通して地域の人材育成に貢献してきました。

田崎さんは、昭和13年(1938年)生まれの82歳。大正14年創業のカットサロンタサキの2代目として後を継ぐ。創業以来一貫して石橋駅西口に店舗を構え、地域の様々な取り組みに関わってきました。

はじめに、石橋駅前の昔の写真や歴史年表を見ながら振返ることに…。

石橋駅ができたのは明治18年頃、現在の東北本線の基礎が出来上がり始めていました。
昭和初期には、蒸気機関車が走り、石橋自動車(現在の関東自動車)のバスが1日約400人ほどの乗客を乗せて運行していました。石橋駅前には、旅館、酒屋、菓子屋などの店舗が並んでいましたが、戦争や大火などを経て現在の石橋駅の姿となりました。

 

昭和初期の思い出と生活

昭和12年、渡辺さんは小学1年生でした。
絣(かすり)の着物に、肩掛けの鞄で通学。雑木林に行って兵隊ごっこをしたり、開雲寺で遊んだりしていました。開雲寺の住職さんが団長となり少年団を結成していたので、子どもたちがよく集まり、遊び場、学びの場となっていました。

昭和17年、渡辺さんが小学6年生になると勉強どころではなくなります。
防空壕を掘り、農家を手伝い、終戦まで軍事工場の手伝いにも行きます。当時、子どものお小遣いは2銭(1銭で飴玉4つ、2銭でおせんべい1枚ほど)でしたが、軍事工場の手伝いでは1日1円もらえたので嬉しかったようです。

お盆になると開雲寺の敷地内に土俵を作って相撲を取っていた話や、開雲寺の南側の原っぱで、夜になると無声映画を楽しんでいたなど、幼少期の思い出は尽きないようだ。

昭和20年、田崎さんが小学校1年生のときに日本は終戦を迎えます。
この頃の主食はかぼちゃでした。栄養失調の子どもが多く、衛生面を気にしている余裕もありません。貧困と食糧難で大変な時代だったと言います。

昭和23年頃、落語家の桂歌丸さんが里子として石橋にやってきました。
当時、中学生だった歌丸さんは、家にいるときはラジオにかじりつき、ずっと落語を聞いていたそうです。石橋劇場で歌丸さんが披露した「おんぼろバス」の話を、渡辺さんは今でも覚えていました。

 

変わりゆくまちと生活

昭和27年と昭和35年、石橋駅前は大火に見舞われました。
当時は木造住宅だったので瞬く間に炎が広がったそうです。自衛隊のポンプ車が到着し、堀り井戸から機械で水を吸い上げるも、2~3分で井戸水が底をついてしまいます。ポンプ車が姿川まで給水しに行く間に炎は再び燃え広がり、住宅50棟以上が燃え、石橋駅は焼け野原になりました。

大火をきっかけに、石橋駅前では区画整理が行われました。道路の幅が3倍ほど拡張され、歩道が整備されました。駅前の店舗は新しく建て直され、商店街は賑わっていたそうです。

大火により、まちの景色がガラリと変わり始めた頃、渡辺さん、田崎さんは20代~30代でした。渡邊さんは、家業のお米屋さんを継ぎ、ウエイトリフティングの国体選手としてもご活躍。その後、結婚を機に引退して仕事に専念するようになります。

米俵を持ち上げて日々トレーニングに励む渡辺さん。ウエイトリフティングは独学で、好きでやっていたら、いつの間にか覚えたとのこと。

田崎さんは、家業の床屋さんを継ぎ、町内の方々とお祭りの運営をしていました。
当時は、石橋の映画館や、宇都宮のショッピングモール、ダンスホールに遊びに行ったそうです。素人演芸会が各地で流行っており、「〇〇地区の〇〇さんが上手い!」といった地域のスター情報を聞いては、各地に見に行き、自身で演劇の練習もしていました。

当時は楽しみが少なく、お祭りなどの行事があると集まっていた。

昭和60年頃、石町通りで暮市や初市が開催されると、自転車が通れないほど人で賑わっていました。「この頃が最も栄えていたのではないか」と、田崎さんは言います。

 

最後に

石橋駅前の地域や時代の変化を聞いた後、参加者間で感想を共有しました。
石橋のまちで長年暮らしてきた方々から聞く、昭和のリアルな日常の話は、普段の生活ではあまり聞くことができない貴重な話だったかと思います。

「昔はお寺に子どもたちが集まり、コミュニティが出来ていたんだね~」、「石橋駅前の通りはよく歩いているけど、知らないことばかりだった」、「大先輩方にこのまちの好きなところを聞いてみたい!」など様々な感想をいただいた。

 

最後に授業の締めくくりとして、渡辺さん、田崎さんから一言いただきました。

「これまで、貧困から繁栄するまでの移り変わる様子を見てきました。最近は徐々に人やお店が減って、まちが寂しい状態になっています。シモツケ大学の方々にも意見やアイディアを出していただいて、再びまちが繁栄することを望んでいます」

今後もシモツケ大学では様々なプログラムを実施します。
この授業で、新しく芽生えた興味・関心を次に繋げて、シモツケ大学で「暮らしが変わるきっかけの場」を一緒に創っていきましょう。皆様の参加をお待ちしております。

これからも近況をレポートで書いていくのでお楽しみに!
また、活動を応援していただけると嬉しいです。

それでは、また次回のレポートでお会いしましょう。

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。